編集: 障害学生支援プロジェクト(DSSP)
第0章 はじめに
我が国の 理工系大学で学ぶ障害を持った学生の数は他国と比較して非常に少ない。その中でも視覚障害を持つ学生の少なさは際立っている。高等学校までの理数教育と大学の受け入れ態勢に根本的な問題はあるが、理工系大学で学ぼうとする視覚障害を持った学生に配慮された専門分野への入門的な教科書がないこともその理由の一つと思われる。「視覚障害を持った学生に対する配慮」とは、教科書の内容ではなく、記載上の表現や記法に関わる心遣いである。一般に、晴眼学生を対象に書かれた理工系教科書には複雑な図表が多く使われており、また無意識に晴眼学生を念頭に置いた表現が使われている。そのため、視覚障害を持つ学生が学習に困難を感じることも少なからずある。それが視覚障害を持つ学生に理工系大学で学ぶ意欲を削ぐ原因の一つになっている。
この数巻の入門教科書は理工系大学で物理の学習を必要とする視覚障害を持った学生を意識して書かれた。従って、学習の補助として図を使用することを極力避けた。やむ得ず図を使用する場合は、触図が無くても図の内容が想像出来るように丁寧な説明を付けた。たとえ補助的な図が無くても、内容が分かりさえすれば誰でもそのイメージを描くことが出来る。実際にアインシュタインや現代の素粒子物理学者は数学の助けを借りて図に描くことが出来ない次元や次元世界のイメージを頭の中に描き、それを理解して来た。たとえ視覚障害を持つ学生であっても、イメージを描くことは出来る。その妨げになることがあるとすれば、晴眼者であるか 視覚障害者であるかによらず、それをやろうとしない心との戦いだけである。記述上のこの特徴を除き、本シリーズは他の物理学教科書となんら異なる所はない。したがって、本シリーズは物理学を必要とする晴眼学生にとっても十分に利用価値があるはずである。年時点で、この教科書を必要とする理工系大学に学ぶ視覚障害を持った学生は決して多くないが、いつの日かこの国の理工系大学で学ぶ視覚障害を持った学生が様々な分野で増え、本シリーズがその役に立つことを期待する。
本シリーズにはもう一つの目的がある。すなわち「物理学」を学ぶことによって「考える作法」を身に付けることである。理工系大学の全ての学部(理学部、工学部、農学部、薬学部、医学部など)は入学した初年度の学生に対し、「物理学」の履修を義務づけている。それらの専門学習に「物理学」の法則や科学知識が必要になるからである。また、「物理学」を必修科目に位置づける文系学部も決して少なくない。その目的が必ずしも「物理学」の専門知識を身に付けることにあるのでないことは明らかであろう。そこには別な目的がある。
「物理学」は年以上も前に「自然哲学」として世の中に現れた。我々の生活に密接に関係する自然を理解するために、 我々は身の周りで展開される自然現象を正しく理解しなければならず、それを正しく理解するためには正しく考える方法を持たなければならず、そのためには最も身近な存在である人間を理解することが必要であった。すなわち「自然哲学」は人間を知るために、自然を正しく理解しよーとする学問であった。その「自然哲学」が中世から近世にかけ「自然科学」の方向に深く分け入った時、それに「物事の筋道(理)」を意味する「物理」の呼称が与えられたので ある。つまり「物理」は、複雑な自然と人間を理解するために正しく考える方法を与える学問であったのである。このことが理系・文系を問わず多くの大学学部が伝統的に「物理学」を必修科目としている理由なのである。「物理学」が高等学校の 学習段階で「理系科目」とされ、そのため「文系」には必要がないと考えられたり、試験のために暗記が必要な学問であると誤解されてしまったのはとても不幸なことであった。このシリーズで物理を学ぶことによって、「物理学」が本来意図する「物事のことわり(理)」を理解する方法、すなわち「考える作法」を身に付けてもらいたい。
本章中でかぎカッコで括られた数字番号(例えば )が付いた数式は以下のどちらかの方法で理解することが 出来る。
(1) パソコン画面に表示された数式を音声読み上げソフトを使って読む方法
(2) 数式のTeXプログラムを音声読み上げソフトを使って読む方法
である。(2)の方法を使いたい読者のために、数式のTeXプログラムが巻末に与えられている。もしそのTeXプログラムを使って数式を再現したければ、適当なTeXのオンライン翻訳サイトにある数式翻訳機能を使うことができる。例えば
物理学の言葉は数学である。中学校の「理科」や高等学校の「物理」に現れる自然現象がなぜ発生するのか、それがどのように発生するのか、その結果どの様な状態が現れるのか等々、そこにある現象や法則を適切に表すために数学が言葉として必要である。もしその言葉の使用が禁じられ、その上で自然現象が生じる理由や法則を理解しようとすると、全てを暗記する以外に方法はなくなる。実際に数学の使用に大きな制限があった高校では「物理」が暗記の必要な科目と思われたし、また教員や高校以後の物理学を知らずに成長した大人もそれを強調し、「物理学」の試験にも暗記を強要するような問題が与えられていたことも事実である。
言うまでもなく「物理を学ぶには暗記が必要」はまったくの誤解である。それどころか間違ってさえいる。
物理を学ぶには暗記は必要ない。それが証拠に、ノーベル物理学賞の与えられた多くの物理学者は、他の学問分野の研究者に比べ特に優れた暗記力を持っているとは思えない。それでも優れた研究成果を収めることができたのは、「物理」をその適切な言葉である「数学」を使って表現すると、多くの自然現象が同じ言葉で表わされ、しかもとても短い言葉で表されたからである。例えば「電磁気学」を「光学」「電気」「磁気」などと分けて学ぶ必要がなくなるからである。複雑に見えるたくさんの現象がたった一つの短い簡単な言葉で表されたとすれば、その一つを憶えることはそれほど難しいことではない。それが、暗記力の優れていない物理学者が優れた研究の出来た理由である。とはいえども、「物理学」を正しく理解し、冒頭で述べた「考える作法」を身につけるためには、やはり必要最小限の数学が必要である。本書ではその必要最小限の数学を与えるので、それを理解して「物理学」を学んでほしい。
§2.物理量の次元と単位
高校の「物理」ではあまり強調されなかったと思うが、「物理学」には「次元」という重要な概念がある。“三次元テレビ”や“四次元の世界”の“次元”も物理の重要な概念であるが、ここでいう“次元”は少し意味が違う。物理では様々な物理量を扱う。そお中では「エネルギー」「速度」「電流」といった日常生活で馴染み深い量から、「角運動量」や「慣性モーメント」などという、聞いただけではわけが分からない量が多く出てくる。もちろん、それらの名前を憶える必要はない。忘れたら適当な教科書を調べればよい。必要なのはその内容である。
たとえば、代表的な物理量の一つである「速度」という言葉には馴染みがあるはずであろう(後で分かるが、物理では以下の速度を本当は“速さ”と言わなければならない。しかし“速度”の方が馴染みやすいと思うので、このまま使うことにする)。「速度が時速
」というように使う。もちろんその意味は、我々の乗っている自動車がもしこのまま時間走り続けたら、一時間後に
離れた地点まで行くという意味である。といっても、実際には信号があったり交通渋滞があったりで、時間走っても進まないであろう。また、ウサイン・ボルトはを
で走るが、これは時速に換算すれば時速である。ボルトが実際にこの速さで一時間走れないのは明らかであろう。この速度でも走れば疲れきってクタクタになるに違いない。
大事なことは速度が「ある決まった時間内に走る距離」であることで、それを知ってさえいれば、そのまま自動車が走り続けると、どのくらいの時間でどこまでいけるかは“速度”に時間をかければ分かるし、行きたい遊園地までの距離を“速度”で割れば、目的地に行き着く時間が分かる。これは誰もが日常的に行っていることである。
実は、この「“速さ”に時間をかければ距離になる」や「距離を“速さ”で割れば時間になる」は、距離を時間で割った量が“速さ”として我々の頭の中に浮かんでいるから出来ることなのである。「ある物理量が時間や距離(長さ)がどう組み合わされて作られているか」を表す式に名前が付いていて、それを「次元」という。いわば「次元は物理量の構造を表す式」と言ってよい。くれぐれも次元を、物理量の大きさを測る物差しの単位と間違えないように注意してほしい。次元を知らなければ物理を理解することはむかしくなるが、単位はもし忘れたら、大きさを計算するときに何かで調べれば十分である。(しかしながら単位を憶えていると、それを調べる時間の節約ができることは間違いない。)
自然界にはたくさんの物理量があるが、その基本次元は「長さ」と「時間」と「質量」の
個しかない。もし扱うのが電気現象である場合はこの
個に「電流」が加えられる。もし扱うのが多数の粒子からなる系の熱や統計的な現象の場合にはこの個に粒子数を表す「モル」が加えられる。また、もし対象が光である場合は明るさ(光度)を表す「カンデラ」が加えられる。この巻では物体の運動を想定するので、現れる物理量の基本次元は「質量」「長さ」「時間」の個だけである。
ある物理量の次元を知るには、その物理量がどのような意味を持つかを知らなければならない。たとえば、速度の大きさ(速さ)
は「時間あたりに進む距離」すなわち「進んだ長さをそれに要した時間で割った量」であるから、の次元は長さと時間の基本次元を使って
<0-1> (0.2.1)
と書かれる。ここで[…]は…が表す物理量の次元という意味であり、は長さ(Length)の基本次元、は時間(Time)の基本次元で、
はその物理量が作られる時に、時間が分母に一回現れることを表している。
「物理量がどのような意味を持つかを理解すれば、その次元は基本次元がどのように組み合わされているかが分かる」と書いたが、逆に物理量の次元を知ればその物理量の基本的な意味が分かり、他の物理量との関係も分かる。すなわち、次元を知ることは物理量が持つ意味を知ることである。
述べたように、物体の運動に関係する全ての物理量(力学量)の次元はつの基本次元の組み合わせで出来ている。と
に加えてもう一つの基本次元は質量(Mass)を表す
である。この三基本次元の組み合わせで全ての物理量の次元が表される。この他の物理量(「電磁気学量」と「熱学量」)も加えて、実際の例を見てみよう。ついでに物理量の大きさを測る物差しの単位を与えたが、さしあたって必要ない。
力学量 | 次元 | 単位(MKS)[1] | 単位(CGS)[1] |
---|---|---|---|
速度 | |||
加速度 | |||
力 | |||
エネルギー | |||
角速度 | |||
角運動量 | |||
振動数 |
電磁気学量 | 次元 |
単位(MKSA) | 単位(CGSA) |
---|---|---|---|
電流 | |||
電荷 | |||
電流密度 | |||
電場 | |||
電位 | |||
磁場 | |||
電気抵抗 | |||
電気容量 |
熱力学量 | 次元 |
単位(MKS) | 単位(CGS) |
---|---|---|---|
温度 | |||
ボルツマン定数 | |||
熱容量 | |||
エントロピー | |||
圧力 | |||
体積 | |||
密度 | |||
自由エネルギー |
物理で自然法則や自然現象を表すために数式や方程式を使う。方程式が与えられたからといって、特に数値が式に含まれる場合は、それをそのまま使おうとすると面倒なことが時々起きる。それを避けるために「無次元化」という手続が必要になることがある。
「無次元化」は必ずしも面倒を避けるために行うだけではない。無次元化した方程式をながめるだけで、面倒な数学を使って方程式を解かなくても答えがどの程度になるかを簡単に知ることができる。実際に生活する上では、それで十分なことがほとんどである。たとえば、原子の大きさは
【知っておくべきこと】
中学の数学で次のような一次関数を学ぶ。
<0-2> (0.3.1)
もし右辺の
<0-3> (0.3.2)
も、
<0-4> (0.3.3)
と書いておく。すなわち、
関数
<0-5> (0.3.4)
とする。この等式では
独立変数が一個の場合の数式(0.3.3)式にもどろう。この数式が「与えられた
等式の従属変数に値を与え、それを方程式として独立変数を求めるときに注意しないといけないことがある、それは
<0-8> (0.3.5)
を考える。たとえばこの右辺の
<0-9>
であるとする。すなわち「従属変数の値が
次に方程式が従属変数
<0-10> (0.3.6)
を考える。この方程式は(0.3.5)式と少ししか違わないと思うかもしれないが、方程式の数学的性質は全く異なる。(0.3.5)式の場合は独立変数
多価関数の典型的な例は三角関数である。たとえば、後にわかるが、
さて(0.3.3)式に戻って、関数
<0-11> (0.3.7)
と書く。この
<0-12> (0.3.8)
を考え、そして
<0-13> (0.3.9)
である。この
逆関数の例をいくつか与えておく:
<0-14> (0.3.10)
[1] 「MKS単位」は質量の単位に
[2] ここでは独立変数を表すのに文字
[3]